■盛岡の歴史を集約する三つの巨石
盛岡という地名は比較的新しい。地名の起こり
は、慶長年間に、南部氏が「不来方(こずかた)
城跡」に「盛岡城」を築き直した
ときと伝わる。人心の一新をはかるため、「盛岡
(さかるおか)」の意をこめた佳字( けいじ)に
改めたのだという。その不来方に、鬼が約束の「しる
し」として手形を押したことから「岩手」という
地名となったという三つの巨石がある。ところは、
文字通りの「三ツ石神社」で、南部藩祖・南部光
行 (みつゆき) を祀った市内最古の神社だ。
境内には、高さ約6メートル、周囲約9メート
ルとされる同じような巨石がふたつ、小ぶりな巨
石が一つ、あわせて三つ並び立っている。鳥居か
らはふたつしか見えず、右に回りこむように進む
ともう一つの巨石が見えてくる。もともと一つの
巌であったものが、長年の風雪で三つに、
割れたらしい。由来に、「俗説」と前置きしながら
このような伝説が記してある。
昔、羅刹(らせつ) という鬼が住民をなやまして
いた。住民は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕まえ
てもらい、三ツ石にしばりつけた。鬼は二度
と悪事はしないし、二度と来ないことを誓っ
たので、三ツ石に手形を押させて逃がしてや
った。岩に手形を押したことから「岩手」と
なり、二度と来ないと誓ったことから不来 ず方
( こずかた)と呼ぶようになった。
(『磐座百選』より一部抜粋)
■遠野に残るあの世とこの世の結界石
柳田国男の遠野物語』には、山人や山神とともにさまざまな
「霊石」が登場する。三人の女神伝説が語られる遠野三山の一つ、
石 神いし がみ (石上)山の存在も大きい。山の麓・上綾織
(あやおり)に、 続石(つづきいし) 、泣石(なきいし)と
よばれる巨石があり、続石は、山神の舞台として登場する。
続石の近くで仲良く遊んでいた山神の男女を、戯れに邪魔した
ため、男の山神に足で谷底に蹴落され、気絶した鷹匠(たかしょう)
が、山神の祟りで三日ほど病んで亡くなる……という話だ。
ここに登場する山神は、「赭(あかき)顔の男と女」と表現されて
いる。山神に共通することは、丈が高いということ、顔が赤く、
眼がきらきらと輝いていることだ。
(『磐座百選』から一部抜粋)
■阿倍氏が信仰したアラハバキ神の神体石
奥州市 衣川(ころもがわ)区石神に、前九年の役のときに
落城した「安倍館跡」がある。館跡から北西に500メートル
ほど、田んぼのなかに、式内社「磐(いわ)神社」が鎮座する。
名が示すように拝殿奥に、巨大な「石神」が横たわり、「 男石
(おとこいし)大明神」ともよばれている。東西約10メートル、
南北8.8メートル、高さ4.2メートルの巨岩で松 山(しょう
ざん)寺の女石(おんないし)とあわせ、陰陽の二神として信仰
されてきた。由緒に、「安倍氏は当社を守護神(荒覇吐神)として
尊崇し……」とあり、荒覇吐には「アラハバキ」とルビがふってある。
いわゆる平安初期の「征夷」のあと、服属した蝦夷(えみし)を居
住させる地として衣川関以北に六つの郡がおかれた。「奥 六 郡
(おくろくぐん)」とよばれるもので、現在の平泉から盛岡市北部
に及ぶ広大な地域をさす。
この六郡の俘 囚を支配していたのが、俘囚の長(おさ)である安倍氏
だった。俘囚とはヤマト王権に服属した蝦夷のことで、夷俘(いふ)
ともよばれた。
(『磐座百選』から一部抜粋)